1873 年(明治6 年)東京外国語学校創設.その後東京商業学校の創設に伴い、統廃合.
1899 年(明治32年)東京外国語学校復活.
1908 年(明治41 年)東京外国語学校の東洋語速成科の一つとして「ヒンドスタニー語科」開設.修業年限1 年.授業は一週22 時間.授業料は一学期8 円、2 学期9 円、3 学期8 円の計25 円で、ヒンドスタニー語の速成科は短期修得のため夜間部にあった.外国教師はノニー・エル・ダット(インド人)と藤田季荘.
1909 年(明治42 年)東京外国語学校のインド人教師はムハムマッド・バルカツルラー(ムハンマド・バルカトゥッラー)氏。日本語講師はいなくなった.
1911 年(明治44 年)ヒンドスタニー語科は本科となり、教育年限は3 年となる.第1 年級には6 名の学生がいた.
1914 年(大正3 年)東京外国語学校の外国教師にデバリラル・シング(デーヴァリー・ラール・スィング)氏が着任.
1916 年(大正5 年)東京外国語学校の外国教師にハリハルナート・トゥラル・アタル氏が着任.
1921 年(大正10 年)大阪外国語学校創立.印度語部を置く.他に中国語部、蒙古語部、馬来語部、英語部、独語部、仏語部、西語部、露語部があった.修業年限3 年.第一、ニ学年は18 時間あった.アラビア語、ペルシア語は印度語部の研修語であった。主任は小川正助教授(東京外国語学校本科の第1 期生)、外国人講師はマハデヴァ・ロール・シロフ氏。
1922 年(大正11 年)11 月11 日、大阪外国語学校開校式.印度語部は「ヒンドスタニー会」を結成し、研究誌『曼荼羅』を刊行.東京外国語学校の外国教師にヘンリー・ドラモンド講師が着任。
1923 年(大正12 年)大阪外国語学校では、澤英三講師(東京外国語学校本科第4 期生)が小川教授の後任として着任.
1924 年(大正13 年)東京外国語学校の外国人教師にケーショー・ラーム・サバルワール氏が着任。3 ヵ月後にビシャンバル・ダット氏が後任として着任。
1925 年(大正14 年)東京外国語学校に蒲生禮一講師着任。
1926 年(大正15 年)東京外国語学校の外国人教師にラーラー・アッタール・セーン・ジャイン氏が着任。当時ウルドゥー語の本は図書館に2 、3 冊しかなかった。
1927 年(昭和2 年)校名を「東京外事専門学校」と改称。修業年限3 年.印度語部内の親睦と研究の目的で「アーリヤ学会」が発足し、機関誌『印度洋』が刊行される.大阪外国語学校に山本健太郎講師が着任.
1928 年(昭和3 年)インドの著名な教育者サイヤド・ラース・マスウードによる著書『日本とその教育事情』(英語とウルドゥー語:デリー)に東京外国語学校でのヒンドスタニー語教育が紹介される。
1929 年(昭和4 年)大阪外国語学校のウルドゥー語教師としてアッタール・サイン講師が着任.
1930 年(昭和5 年)東京外国語学校の外国人教師にケーショー・ラーム・サバルワール氏が着任、同年バドル・ル・イスラーム・ファズリー氏が着任。当時東京外国語学校にはウルドゥー語関係の蔵書が約2000 冊あった。
1931 年(昭和6 年)大阪外国語学校印度語部の当時の教科書は、プレームチャンドのPrem‐ Battisiだった.
1932 年(昭和7 年)東京外国語学校の外国人教師にケーショー・ラーム・サバルワール氏が着任、同年10 月にヌール・ル・ハサン・バルラース氏が着任。
1934 年(昭和9 年)大阪外国語学校のウルドゥー語教師としてマダン・ラール・ジャイン講師が着任.
1938 年(昭和13 年)大阪外国語学校のウルドゥー語教師としてサント・ヴァルマー講師が着任.蒲生禮一著『ヒンドスタニー語文法』東京外国語学校編、が刊行される。
1942 年(昭和17 年)大阪外国語学校の澤英三教授によるウルドゥー語文法書『インド文典』が丸善より刊行される.外務省と大阪外国語学校の協力によるウルドゥー文字の活字が鋳造され、これが用いられた.本書は後にナーガリー文字版も出版されている.
1943 年(昭和18 年)東京外国語学校非常勤講師の木村一郎による『インド語四週間』大学書林より発行.
1944 年(昭和19 年)「大阪外事専門学校」「東京外事専門学校」と改称.
1945 年(昭和20 年)大阪への空襲により書庫を除き大部分の校舎が焼失.
1948 年(昭和23 年)澤英三著『印度語入門』が朝日新聞社より刊行.
1949 年(昭和24 年)「東京外国語大学」「大阪外国語大学」誕生.「インド語科」(第7 部第1 類)を置く.
1951 年(昭和26 年)大阪外事専門学校廃止.
1957 年(昭和32 年)澤英三著『インド・パキスタン会話』江南書院より刊行.
1960 年(昭和35 年)澤英三著『インド文典』丸善より刊行.
1961 年(昭和36 年)東京外国語大学のインド語科は「インド・パーキスターン語学科」と改称.ウルドゥー語科とヒンディー語科に分化.大阪外国語大学の澤教授退官.加賀谷寛講師が着任.
1963 年(昭和38 年)東京外国語大学に鈴木斌講師着任.
1964 年(昭和39 年)東京外国語大学の蒲生禮一教授退官.
1966 年(昭和41 年)東京外国語大学に外国語学研究科修士課程設置 大阪外国語大学、インド語科を「インド・パキスタン語学科」と改称.
1969 年(昭和44 年)大阪外国語大学に大学院修士課程設置.インド・パキスタン語学はアラビア語学、ペルシア語学と共に「西アジア語学専攻過程」に含まれる.
1976 年(昭和51 年)蒲生禮一著『ウルドゥー語入門』泰流社より刊行。大阪外国語大学の加賀谷寛教授、国際交流基金によりパンジャーブ大学に日本語講座開設のため派遣(1977年4月まで)
1978 年(昭和53 年)鈴木斌編『ウルドゥー語基礎1500 語』大学書林より刊行.
1979 年(昭和54 年)鈴木斌・麻田豊編『ウルドゥー語常用6000 語』大学書林より刊行.
1981 年(昭和56 年)鈴木斌著『基礎ウルドゥー語』大学書林より刊行.大阪外国語大学のウルドゥー語教師としてパキスタン・パンジャーブ大学オリエンタル・カレッジのタバッスム・カーシミーリー博士が着任.
1982 年(昭和57 年)東京外国語大学に麻田豊講師が着任.大阪外国語大学に松村耕光助手が着任.
1986 年(昭和61 年)大東文化大学国際関係学部国際関係学科でウルドゥー語教育開始.片岡弘次助教授(東京外国語大学大学院修了)が着任.
1995 年(平成7 年)大阪外国語大学、外国語学部全学科を国際文化学科と地域文化学科に改組。ウルドゥー語専攻は「外国語学部地域文化 学科南アジア地域文化専攻」となる.
1996 年(平成8 年)大阪外国語大学の加賀谷寛教授退官.大阪外国語大学に山根聡講師が着任.
1997 年(平成9 年)大阪外国語大学、大学院言語社会研究科を設置し、大学院外国語学研究科を廃止する.
2000 年(平成12 年)東京外国語大学にパンジャーブ大学オリエンタル・カレッジのウルドゥー文学部主任教授スハイル・アフマド・ハーン博士が着任.
2002年(平成14年) 東京外国語大学にカラーチーからムイーン講師が着任。
2005年(平成17年)
鈴木斌東京外国語大学名誉教授逝去(1月14日)。
大阪外国語大学の濱口恒夫教授退職、萬宮健策講師が着任。
タバッスム・カーシミーリー外国人教師離任、ムハンマド・ファハルル・ハク・ヌーリー博士が着任。
2007年(平成19年) 10月,大阪外国語大学が大阪大学と統合。大阪大学外国語学部に。
ムイーヌッディーン・アキール博士(前カラーチー大学ウルドゥー文学科主任教授が,高度情報配信システム構築プロジェクトで大阪大学に着任。
2008年(平成20年)4月,ヌーリー先生が帰国,スハイル・アッバース博士が着任。
2009年(平成21年)4月,アンワール・アフマド博士が着任。

参考文献松村耕光「ウルドゥー語教育の歴史とその展望」『わが国における外国語研究・教育の史的考察(下)』大阪外国語大学、1992 .
 高橋明「印度語部からヒンディー語学科へ」『わが国における外国語研究・教育の史的考察(下)』大阪外国語大学、1992 .
 鈴木斌「東京外国語学校のインド人教師」『蒲生禮一先生記念論集』蒲生礼一先生記念刊行会,1987 .


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